人生はテトリスだ、チェスのように駒を進めるのをやめよう【寄稿】

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Tor-Bair-photo本記事は、Tor Bair さんによる寄稿記事です。MITのMBA生。ライターで、人生へのフルタイム参加者。Twitter アカウントは、@TorBair。元の英語記事もどうぞ。


僕はチェスをしながら育った。この体験は僕に、競争について多くのことを教えてくれたーそして、人生における間違った教訓の数々も。

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7歳の頃から、僕は絶えず競技としてのチェスをしながら育った。学校で、ネット上で、また全米大会でチェスをやり続けた。僕はチェスのおかげで、忍耐力、我慢強さ、批判的思考について学ぶことができたーそして、チェスが人生における難題や困難に向き合う際に必須となるスキルを教えてくれた。

幼くしてチェスを始めた僕は、若い頃から因果的思考力を身につけることができた。ナイト(騎士)をここに動かせば、彼のビショップ(僧正)を取ることができる。ポーン(歩兵)を取れば、彼の右サイドを進みやすくなる。正しい判断の一つ一つが、チェックメイトという勝利へと僕を近づけてくれた。一つ一つのミスが、僕を敗北へと近づけた。

チェスはまた、僕の中に「相手」という発想を生んだ。黒 対 白。母校 対 相手校。すべてのゲームはゼロサムで、永遠に1点でしかないスコアを共有するか、完全に奪われるかのどちらかしかない。今以上にパイを大きくすることはできない。

僕は15歳になるまで、ずっとチェスという競技に真剣に取り組んだ。たしか自分の携帯を持ち始めた頃だったと思う。大した有用性はないものの、ティーンエイジャーにとって携帯ほど自由を意味するものはなかった。今でもよく覚えている初めての携帯は、カラー画面で折りたたみ式だった。

自立の象徴であるそれを、僕はどこへでも持ち歩いた。当時の携帯はインターネットにアクセスすることもできなければ、Snapchatを送ることもできなかったけれど、携帯には暇つぶしできるあるゲームがあった:テトリスだ。僕はそれに夢中になった。

ある人たちにとって、テトリスはまさにフラストレーションが具体化したものだと言える。同じようなことが繰り返され、勝つことは不可能に近く、運がものを言う。でも僕にとって、それは人生そのものを何より象徴する存在になった。テトリスと比較すれば、チェスなんておふざけの机上作戦に過ぎない。

僕は競技としてのチェスをやらなくなった。一方のテトリスは、今日に至るまで僕の携帯にインストールされた唯一のゲームであり続けている。それは僕のホームスクリーンを陣取り、人生がテトリスであって、チェスではないことを僕に思い出させてくれている。

この違いについて、4つのシンプルなポイントにまとめてみようと思う。もしかしたら、僕と同じように、君もこれまでゲームの遊び方を間違っていたのかもしれない。

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1. 人生における唯一の対戦相手は自分だ

僕は、敵を探しながら育った。喧嘩する相手、責任を押し付ける相手、自分が正しくて相手が間違っていることを証明するための相手。僕は、そこにいもしない敵を想像してきた。なぜなら、戦うことは容易かったから。本当はもっと他に得るべきものがあったのに、僕はすべてのことをゼロサムかのように扱ってきた。

これがチェスのマインドセットだ。そして、それは君を引き止めて離さない。

テトリスでは、上から下へと流れてくる終わりのないブロックと時間とだけ戦う。それは、内省的なマインドセットだと言える。ランダムに流れてくるブロックを正確に操作し、それを秩序正しく配置していくというチャレンジを自分に対して課している。挑戦相手は他でもない自分だ。

人生というゲームは、完全に内省的なものだ。本当のところ、君を苦しめようとする巨大で極悪な対戦相手など存在しない。特定の相手によってこらしめられることもなければ、完全に正しい判断もないし、完全に間違った判断も存在しない。君が高みを望めば、君のスコアは無限大に伸び続ける可能性がある。人生のスコアがどれだけ早く、または遅く溜まっていくかは、君の努力次第だ。ここで次のポイントが登場する。

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人生は困難を増すわけではない、ただ早さが増していくだけ

チェスを含むある種のゲームは、それをやる期間が長くなればなるほど困難をきたす。ポジションは複雑化し、対戦相手は強くなり、賭けるものが大きくなる。君には守るべき公的な順位や評価があって、同じ相手と対戦することで失うものが次第に大きくなっていく。

テトリスは違う。一つ目のブロックから、画面に余白が完全になくなるまでゲームの中身は変わらない。唯一変わるものは、スピードだけだ。

残された人生で、テトリスを最低速のスピードでやり続けたなら、君は一生敗北を味わうことなく生きられるかもしれない。ただ一つ敵がいるとすれば、それは疲労だろう。でも、テトリスで勝利するためのアルゴリズムは決して複雑ではなく、ブロックを最適な位置に動かすだけの時間は十分に許されている。

テトリスではたいてい、他ならぬ自分自身と戦っている。ただ1列ずつ列を揃えていくことだけでは満足しない。僕たちは無理をしてでも、4列同時にクリアする「テトリス」を目指す。ゲームの名前にもなっている。これを目指さないなら、そもそもテトリスをやる意味がない。

僕は長いあいだ、人生をまるでチェスのように扱ってきたーどんどん難しさを増す挑戦の連続。必要のないところに自分で問題を作り出し、被害妄想に陥っていた。でも、人生は長く生きることで難しさが増していくゲームではない。年をとることで、僕らはより稼ぎ、より賢くなる。より自立する。それを望まないなら、新しいことに挑戦しないという選択肢もある。でも、充足感を求める僕たちは、挑戦し続けることを止めない。

しかし、人生のスピードは増す一方だ。僕たちが生きる1日1日の「人生のトータルの長さ」に占める割合は、どんどん小さくなっていく。そのため、時間がより早く過ぎていくように感じる。また抱える責任も大きくなり続け、心底楽しむべきタスクを面倒で妨げだとしか捉えられなくなってしまう。

まるでテトリスのように人生を制覇する唯一の方法は、同じだけのセルフコントロールを最速のスピードで発揮しながらプレイする術を習得することだ。どんなスピードで進んでいようと、目標を妥協してはいけない。自分の精神、行動、そして時間を支配することだ。これは次のポイントへと僕達を導いてくれる。

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3. 人生のボードを支配することはできない

前述の通り、チェスは因果的なものだ。いかなるポジションにも、最良の一手が存在する。対戦相手を隅へと追い詰めてもいい。君がスーパーコンピューターなら、20手まで先を読むことができるだろう。

チェスには、決まったルールとベストプラクティスがある。1. e4は、白にとって強い初手で、1. h3はそうじゃない。これは、チェスが閉鎖的なシステムだからだ。そこにランダムな制約はなく、まぐれもない。とある駒は常に同じ動きをするし、ゲーム開始前のポジションも全く同じだ。

テトリスはどうか。プレイヤーにわかるのは、次のブロックの形だけだ。たった2つ先のブロックがつくる状況すら予測できず、ブロックの最良の配置を実現するために「今」に集中してプレイするしかない。未来を支配できるなどと勘違いすることはない。

僕は長いあいだ、チェスのマインドセットで人生を歩んできた。最良の一手が何かを探ったり、決まった結論に向かって無理やり推し進んだり。周囲のありとあらゆる因果関係を見出し、それらを支配する決意を固めていた。

でも、人生に因果関係は存在しない。いつだって、なんだって起こりうる。10億分の1しか可能性がないことだって起こりうる。僕たちのアクションの結果として起こることを予測する直接的な方法は存在しない。人生そのものがオープンなシステムで、予期せぬ出来事の数々が人生の展望やその時々の視点を変えていく。人生最大の決断でさえ、因果的なものではない。だからこそ、多くの結婚は離婚に終わるのだろう。

自分が置かれた状況を改善しようと試みる時、次にどんなブロックがくるかを当てようとするべきではない。テトリスと同じように、自分が置かれたシステム自体を完全に支配しようとしなくても、最良のポジションにたどり着くことはできる。ぜひとも自分を制御し、自分自身に挑戦してほしい。「テトリス」を本気で目指してほしいーでも、それを目指すからといって特別扱いを期待するべきじゃない。そして最後にもう一つ…。

 

人生で勝利したかどうかは誰も教えてくれない

チェスでは、対戦相手がそのキングを倒すことで降参する姿を見ることができる。トーナメントの最終スコアが貼って出される。君は、勝利の満足感を味わうことになる。勝てない、その日がくるまでは。

チェスをやめた日のことを今でもよく覚えている。対戦相手に負かされて、苛立ちからやめたわけではない。むしろ、僕はその時トーナメントで勝利した。でも、その後、僕は何も感じなかった。

何千年と続くチェスのルールによれば、負ける方法は2つしかない。チェックメイトされるか、降参するか。僕がチェスをやめた日、僕はもうひとつの方法を編み出した。もし、自分が新しいことを学ぶことなく、また苦難や勝利を楽しめずにいるのなら、僕は最初から負けていたのだと。

チェスをやめる決断は解放的であると同時に怖くて混乱に満ちたものだった。僕の「初恋」の相手をあきらめたのに、なぜこんなに開放感があるのだろう?

チェスをやめることが心地よく感じられたのは、僕がそもそもチェスをやろうと決めた理由そのものだった。それは、それを自分が選んで決断したということ。チェスをやめると決めてからというもの、僕の強い競争心や因果的なチェスの心持ちは弱まり、僕の視野もまた開けていった。

そうしている間に、「ゲーム」という僕の中にぽっかり空いた穴にテトリスが侵食し始めた。僕は毎日テトリスを手に取り、また負けることを知りながら、それでもテトリスをやり続けている。

負けるまでに、どれだけ長い時間を遊べるか?ブロックが落ちてくるスピードはどれだけ上がるか?最終スコアは何点か?テトリスというゲームは、こんなメトリクスを記録していく。でも、僕は勝つためのある方法を見つけたー毎日欠かさずテトリスをすることだ。

妥協することないゴールを自分に対して課すことを、僕は日々楽しんでいる。定期的に自分へのチャレンジを設定し、それを達成するために毎日励むことができて満足だ。そのチャレンジを達成できたかどうかは、自分のみぞ知る。

テトリスを毎日続けることは、僕の決意をいっそう固くする。また、結論が出ないことがわかっている物事に対して、辛抱し集中し続ける決意を固めてくれる。僕は、勝つためにやっているのではなく、テトリスをするためにやっているのだから。

・ ・ ・

人生というゲームもまた、それを生きるためにするべきだ。敵にばかり目がいったり、支配することを求めてはいけない。物事が、あくまで自分の視点の問題であることを理解する必要がある。

チェスは孤独なゲームになりえるーでも、テトリスもその例外ではない。どちらにも、忍耐と決意が求められる。どちらにも、偏見のない、オープンな心持ちが必要だ。

君の人生の「進み方」を選ぶことができるのは、他の誰でもなく、君しかいない。くれぐれもプレイするゲームを間違えないでほしい。

(翻訳:三橋ゆか里)

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