YUKOGARDENは夫婦2人だけで設立した会社です。起業の時の年齢はどちらもシニアと呼ばれる世代になってからでした。代表を務める私、神崎ゆう子はちょうど昭和から平成へと元号が移った時にNHKの「おかあさんといっしょ」のうたのおねえさんでした。一定の時期ごとに日本に一人しか存在しない立場になることが私の最初の就職体験でした。そしてその時から30年以上の時を経て、今度は思ってもみなかった株式会社の代表という肩書きを持つことになりました。これも職に就く、ということなのでしょうか。
最初の就職は憧れを形にできるチャンスが突然訪れて、あれよあれよという間にことが進み、経験を積むうちにジタバタ足掻きながらもいつの間にか自分なりのうたのおねえさん像は作れたかも、という感覚はありました。でも、それは求められることに応えていくという仕事の仕方であったなと、今では振り返っています。しかし今回の起業においては、明確に私の果たすべき役割と時代のニーズを十分に意識して行動を起こしています。今だから、私だからできることを。この年齢になったからこそできることを。
(神崎)ゆう子の庭に来て遊びながら育っていってほしい、教育とエンターテイメントの架け橋になりたい、という理念のもと起ち上げた会社にYUKOGARDENという名を付けました。昭和から平成、そして令和という時代をつないで、生まれてきたこの会社のここまでのSTORYをお伝えします。
◆「ゆうこせんせいといっしょ!」を始めたきっかけ
現代は大きな変革の時を迎えようとしています。もしかすると、私たちが積み上げてきたつもりの経験や歴史とはまったく違うストーリーが始まろうとしているのかもしれません。そんな時代を生きてゆくことになる、私から見れば「孫」にあたる世代の子どもたちへ向けて、自分が伝えられることは何だろうか。自分の子供たちが巣立って行った時に私が考えていたのはそのことばかりでした。
折しもコロナ禍で、子どもたちの暮らしも大きく変わり始めていました。私の高校時代の同級生が幼稚園の園長に就いていて、登園が停止されて通うはずだった園で遊ぶこともないまま年次だけ上がっていく子供達の生活を憂いており、なにかできることはないかと考えました。その上で、配信で幼稚園通信のようなプログラムを作って家庭で見てもらいたいので、力を貸して欲しいと依頼されました。私も同じように心を痛めていたので一も二もなく賛同して「ゆうこせんせいといっしょ!」という名前での番組(動画)作りがスタートしました。
■「ゆうこせんせいといっしょ!」初回の撮影風景
内容としては、その園の理事長が音楽家でもありオリジナル曲をいくつも作曲していて、もちろん園児たちと歌う曲もたくさんありました。ですので、まずその理事長のピアノで私が歌うパートを中心にしました。次に私が若い先生から手遊びを教えてもらうコーナー、そして私が絵本を朗読するコーナーで構成することにし、時間は子どもたちが集中して見ていられる15分ほどにしました。場所は園内の入園式などに使うホールや子どもたちがいつも遊ぶ遊戯室、図書室を中心に使い、飾り付けや背景、小道具までを先生方の手作りにしようとアイディアは広がりました。
制作方法も身内だけでスタッフが集まりそうでした。園長関係でカメラマンがいて、私の夫がテレビ番組の音響効果をしていたこともあって、撮影以降の編集から動画にするまでをカバーできそうだったのです。そのため、思ったことをダイレクトに伝えられるし、現場での小回りも効きそうな気がしました。
■はじめのプランでは私が図書室で絵本を朗読する、というコーナーでした
それから内容の構成を練るうちに、私は絵本の朗読のコーナーについて、少し試してみたいことがありました。それは夫が担当していた番組の中に、NHKのEテレで放送されている『てれび絵本』という番組があります。あのようなイメージで絵本の絵の中のキャラクターや背景がゆっくり動く映像に、私がナレーションをつける内容の映像は作れないものか、夫に相談しました。彼はもともと映像の編集も好きで趣味的にやっていましたが、話をすると大変興味を持ってくれました。映像のイメージはてれび絵本で見ていたのでよくわかっており、自分だったらこうするのにな、と番組に音響効果として関わっている時から思っていたそうです。その念願を思い切りぶつけてもらうことにしました。
子どもたちの通っていた、そして遊ぶはずだった園庭やホールで私が歌い、遊戯室で先生と手遊びをし、そして図書室にいる私のガイドから絵本の動画がスタートする「番組」は、手作り感満載ながらもプロの手も加わった内容の濃い15分になったな、という実感がありました。
配信が始まると、それは大変好評に迎えられたと聞きました。アンケートを全世帯から集めてくれたものを読みましたが、
「ここはいつも〇〇ちゃんがずっと座っているところだよ」
「この木は〇〇先生がかくれんぼのときいっつも隠れるとこなんだよ」
「家ではこれまで聞くことのできなかった会話が生まれるきっかけにもなった」、
「あまり喋ったことのなかった先生の歌う声や遊ぶ様子を、見ることができて人柄に触れた思いがした」
といった予想を超えるような反響があって驚きました。作ってよかったと本当に思いました。
そのなかでも、私が手応えを感じたのが絵本の動画のコーナーでした。趣味の延長という感じで作ってもらった作品は思いのほかクオリティーが高かったのです。画像は元の絵本の中からしか使っていないのですが、見せたい部分へのズームや切り替わりのタイミングなどで、紙で読む時とは全く違う楽しさがあるように思いました。そして音に関しても、夫がミュージシャンではないので簡単な打楽器を使ったアクセント、いわば効果音と楽器音の間くらいの音で構成されていたのが良かったのだと分かりました。音楽という形の部分は、本当にエンディングのところだけだったように思いますがそれで十分でした。隙間の多い音空間が意外にも、映像の中では大事な緊張感を生むのだと気づきました。
絵本を動画にする時に一番大事なことは「音」だと思いました。それも音楽というより朗読の声、環境を作る効果音、それに楽器で演奏された音楽がうまく混ざり合って「音」として構成されていることだと気づかされたのです。
■私も声の出演だけでなく音作りにも参加します
この「ゆうこせんせいといっしょ!」という作品作りに関わったことが後に、起業しようという思いにつながりました。
このような業者主導の配信プログラム作りではない、手作りに近いけれども制作の最終工程にはしっかりプロの手が入る、思いのこもった動画制作は他の幼稚園やこども園でも需要があるのではないか、そして私がやっていたうたのおねえさん、という立場の人材も育成してみたい、あるいは現場の先生方に私のノウハウを伝える場を作りたいというのが初期の起業意図でした。
そのうち新型コロナも沈静化するだろう、リアルな触れ合いが中心に戻った幼稚園での生活を想像した時に、配信のプログラムが必要とする内容はきっと違うものになるだろうと予想がつきました。ということで起業はするがその事業の中心は、「ゆうこせんせいといっしょ!」で私が手応えを感じた絵本の動画、にすることにしました。
企業の理念としては「教育とエンターテイメントの架け橋に」とうたいました。まじめと遊び、のように区別されがちなこの2つも本来は垣根の無いものでお互いに行き来のあるものだと考えています。それをもっと意識してもらうためにまず橋渡しをしながらやがて地続きになって橋が必要なくなる世界が理想、ということです。
そしてこれからの未来を生きる、私からすれば「孫」の世代には「やわらかくしなやかな心」を持って欲しいなと思っています。強い嵐の中でも、降り荒ぶ雨の中でも、折れずにまたしっかりと背筋を伸ばせる時をじっくりと待てる強さが、これから訪れるかもしれない激動の時代に必要なことではないかと感じているからです。そのためにまず幼い頃からたっぷりと触れて吸収しておいてほしいものとして私が今強くお勧めしているのが、「えほん」と「うた」なのです。
この2つは教育のコンテンツとしてもエンターテイメントのコンテンツとしても大変強力なものです。YUKOGARDENはそのふたつのちからを最大限に引き出すことを目標にしていきます。
■2023年から新たにスタートした「えほんシネマ」プランと「声育」の実習講演プログラムについての紹介パンフレット~えほんとうたの力~より
◆うたのおねえさん、夫との出会い、そして母となりコロナ禍まで
■3歳?くらいの私(神崎ゆう子)ピアノ椅子の上で歌ってます
子供の頃から歌を歌うことが好きでした。それも人がいる前でその声を聞いてもらうことが大好きだった私は、8歳の頃にNHK東京放送児童合唱団に参加しました。その後合唱団の卒業年齢の20歳まで、そこが生活の中心でした。この時期に学んでいたことがどれ程貴重なものであったのかを、本当に実感するのは令和という時代が始まってからになりました。それくらい当たり前に音楽が周りに満ちていて、声を合わせてその響きを感じることが息をするように自然なことだったのでしょう。
そもそも「うたのおねえさん」に憧れるきっかけになったのも、NHKの合唱団に在籍していたからです。当時たくさん放送されていた歌番組で、その時おかあさんといっしょの初代のうたのおねえさんだった真里ヨシコさんと合唱として共演したことがありました。その際に、うっとりするような幅の広い表現力や、語りかけるように訴えてくる声の使い方に感動して、自分もあんな風に歌える人になりたいと思った体験が大きかったのです。
■10年以上在籍した合唱団の仲間たちとヨーロッパへの演奏旅行で
そして歌が好きで音楽大学まで進み、声楽を学んでいた3年生の時、その憧れへの道が突然に開けます。
NHKおかあさんといっしょの、うたのおねえさんの「募集」が大学内で掲示されたのでした。うたのおねえさんという職業は常に募集しているものではありません。ふつうは5、6年に一度、もっと長い間隔になることもあります。ですから今か今かと待っていたわけではありません。憧れは憧れのまま、夢は夢、と思っていたところに本当に突然その夢を叶えるチャンスがやってきたのです。
応募は迷いませんでした。希望者が多かった為に、学内でまず選考会がありました。そこは通過することができNHKでのオーディションへと進めることになりました。NHKでは書類審査から歌や動きなどの2次審査を経て、とうとう最後にカメラ前での最終審査まで繋がりました。
最後の審査は本番時にも使用するスタジオで、番組に携わる技術スタッフも加わった中で、照明やカメラも収録の時と同じ配置で行われます。番組の進行の中の一部を予め指導されたように演じます。取り囲むディレクターを出演する子どもに見立ててのやり取りののちに、きっかけの台詞でカラオケが再生されてそれに合わせて歌う、という進行でした。
その時にスタジオの2階部分にある副調整室という場所で、準備されていたカラオケを再生するテープレコーダーを操作していたのがYUKOGARDENのもう1人の取締役で、夫でもある稲村でした。
大学在学中から誘われて見学に行き、そのまま大学を辞めテレビ番組の音響効果を制作する会社へ入社していた稲村は、NHKの教育番組を担当して2年目でそこにいました。
彼は大学生の頃から学内でのダンスパーティーで音出し、選曲をしていて音楽に関係した仕事に就けたらいいな、とは思っていましたが、それは具体的にこの仕事でという方向性もない漠然としたものでした。それが先に映像制作の会社に就職を決めていた友人の紹介であれよあれよと話が進み、あっという間に「音響効果マン」と当時は呼ばれていた仕事を得ることになりました。思えばYUKOGARDENの私たちは、2人ともぼんやりとした憧れがある日突然現実になる、というところは共通の経験をしていたのかもしれません。
そして2人ともが、平成の時代はそれぞれの仕事において経験を重ねつつ家庭を持って、子供を2人社会人として送り出す親としての役割を学ぶ時期として過ごすことになったわけです。子育てという時期がきっちり平成で終わり、令和という時代は、新型コロナを引き連れて始まったような印象です。辛い時期になりましたが夫婦2人に戻り、その中で私たちは新しく自分たちが進むべき道を見つけました。
■「おかあさんといっしょ!」現役中のリハーサル風景から
◆就職経験もゼロの私が起業へ
これまでの人生ではいわゆる「就職」という経験はありませんでした。うたのおねえさんは仕事ではありましたが、私にとっては会社へ通勤するようになるのが就職、というイメージだったのです。思えば私の父も祖父から受け継いだ不動産業から自宅での町工場など、どこかに勤めに行くという姿を見ていませんでした。母は専業主婦でしたので、そもそも会社に勤めに通う人が身近にいませんでした。近所にはたくさんいたはずですが、本当に雰囲気だけでしか「会社」や「就職」というものを知り得なかったのです。その私がシニア世代になってから「会社」を起こすことになるとは、昔は考えもしませんでした。
私が考えていた「教育とエンターテイメントの架け橋に」という理念を叶えるためであれば、特に会社組織にすることもなかったのかもしれません。個人としての活動を神崎ゆう子として続けていても可能なことだったかもしれません。しかしながら自分の年齢を考えた時に、いつまで健康で人前に立ち続けられるだろうか、その点が少し不安でした。この活動を社会で広めるためには、理念を共有してくれるスタッフや人材が必要です。それに視野を広くとって世の中を観察していくためにも、自分だけの目や耳だけでは足りません。そのためにまずは夫婦2人で始めるとしても、やがては人を迎え入れていく準備は絶対に必要だと考え、会社という場所を作ろうと思い立ちました。
正直会社の形として自分たちの行おうとしていることに相応しいのは、どんな形態かについては、特に外部の人に相談することもなく2人で決めました。形態として株式会社を選んだ理由の一つは一般的な信用度が高いのでは、という単純な発想でした。絵本の動画