私が億万長者になった日ーーRuby on Railsの生みの親が見つけた人生で「最良のもの」

by Medium Japan Medium Japan on 2016.5.10

私はコペンハーゲンの街はずれのミドルクラスよりちょっと下くらいの家庭で育った。スカンジナビアの外はどこでも「貧乏」という社会経済的なレッテルが貼られていたが、デンマークのセーフティー・ネットとサポート・システムは国内状況を何とか改善しようと最善を尽くしてくれていたのだ。

中央が私。手作りの服を着て、同じく手作りの忍者の武器を構えている。イェイ!
中央が私。手作りの服を着て、同じく手作りの忍者の武器を構えている。イェイ!

とここまで読んで心配しないで欲しい。これから語るのは「無一文から大金持ちになったサクセス・ストーリー」ではない。しかも、私は「英雄的なことをたった1人で成し遂げた」と吹聴して回るのが大嫌いなタイプだ。

私は無一文どころか政府が支援する産休、育児、教育制度、現金支給の恩恵まで受け、さらにはAAB(労働組合による住宅支援協会)が用意してくれた住宅で不自由なく育った。それに私の母は、全く余裕のない家計の帳尻を「1番安い牛乳を買うために自転車で15分もかかるスーパーに行った」というような愚痴ひとつこぼすことなく見事に合わせることができるマジシャンでもあった。

このように育って私は2つの大切なことを学んだ。第1に、衣食住のような基本的な欲求が満たされている限り、生活の満足度というものは物質的な豊かさにそれほど左右されないということ。華やかなものではなかったが、私は子ども時代を満喫した。第2に実際に勝ち組に加わるまでは、最初の教訓が真実だと信じることができず、その意味するところが分からないということだ。

コモドール64: 欲しくて仕方がなかったものの1つ
コモドール64: 欲しくて仕方がなかったものの1つ

私は何度も弟と一緒に「億万長者になったら何をする?」というゲームをしてきた。何時間も素敵な買い物の夢想に耽り、どれが欲しくてどれが買えそうか比較検討した。コモドール64を買うために1年ずっと貯金しなくてもいいなんて想像できるだろうか?毎年外国旅行に出かけるのは?せっかくだから大きく出よう、家族のために車を買おうじゃないか(予算は青天井ではなかったがエッフェル塔より少し高いくらい)?

こんな想像に耽る前提として、毎週貰える慎ましやかな小遣いの制約がなければ人生はどんなに良くなるだろうかという根本的な思いがあった。お金さえあれば人生は素晴らしくなるに違いなかったのだ。

大きくなってもこのゲームはいつも頭の片隅にあった。欲しい物を買うお金よりもしたい事の方がたくさんあったのは確かだったが、何か欲しい物のために働くのは意味のないことでは決してなかった。幸運にもデンマークに生まれたので最低限の生活に困るということはなかったし、海賊版のソフトウェアをエリートBBSで売ることで多少の贅沢も出来た。

エレクトロニック・コンフュージョン BBS ASCII 1995
エレクトロニック・コンフュージョン BBS ASCII 1995

しかし「もっともっと欲しい」という貪欲さや、少しでも余分があればそれが積もって大きな幸せにつながるはずだという強い思いに付きまとわれ続けていた。アミガ1200をあれ程欲しがったくせに、それが手に入れると今度は自分が本当に欲しかったのがアミガ4000だと気づく。こんなことをまるでトレッドミルのように繰り返しても、根本的な問題が何かということに私は気づかなかった。

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そして、2006年に突然状況は大きく変わった。ジェフ・ベゾスがBasecampに関心を持ってくれたので、ジェイソンと私はそれぞれ会社の非支配持分を数百万ドルで売った(Basecampは設立当初から財務状況が悪くなかったので、無理に資金調達する必要はなかったのだが)。私は億万長者になったのだ!

当座預金の残高が突然劇的に増える日を迎えるまでの数週間のことを覚えている。不安だった。夢の戸口に立っていた。今まで楽しみにしていたこと、億万長者になるのがどれだけ素晴らしいかもうすぐ分かるのだ。今まで欲しかったあらゆる種類のコンピューターやカメラ、乗りたくてたまらなかったどんな車も買える。

「もう2度と働く必要がない」というのも私の夢の大切な一部だ。死ぬまでレジャーという生き方は私がずっと望んできたこの世の幸福の極みとなりそうだった。それについては何度も何度も考えた。あらゆる試算を行いもした。例えば「おい、もし全財産をバランス良く株と債券につぎ込んだら、浪費はできないにしても死ぬまで働かずに快適な生活ができるぞ」といった感じだ。

その日が近づくに連れて、私は「ついに億万長者になれるんだ」といういっときの多幸感に満たされた。少なくともその週の残りは、心の中でとんでもなく大きな笑みが広がりっぱなしだった。

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それから少しばかり自信が揺らぎ始めた。こんなもんなのか?金持ちになっても世界が違って見えないのはなぜ? *シェイク、シェイク* まだまだこれから?

誤解しないで欲しい。レストランで値段を見ないで注文できるのは本当に快適で満足だ(読者の皆さんはまだ見ていたとしても)。でも、ちょうど誇大広告の連発のせいで、せっかく面白いのに見るとがっかりしてしまう映画に似ているのかもしれない。金持ちになったという結果ではなく、金持ちになりたいという積年の期待の方が大きすぎて、それが現実になった時に感じる幸せが平凡なものに思えたのだ。

最初の数ヶ月、私はほとんど金に手をつけなかった。いや、確かに大きなスクリーンのテレビを買ったし、観たかったDVDボックスセットをたくさん揃えもしたが、予想していた浪費っぷりではなかった。その年の終わりになって初めて、私は成金の典型とも言うべきとても大きな買い物をした。イエローのランボルギーニだ!もう全てが素晴らしかったが、それでも心からの満足を与えてくれるものではなかった。

富についてのありふれた誤解: 「ランボルギーニに乗ってる人で不幸せそうな人を見たことがない」
富についてのありふれた誤解: 「ランボルギーニに乗ってる人で不幸せそうな人を見たことがない」

心に満足を与えてくれるもの、それはRubyのプログラミングであり、Basecampを構築することであり、Signal v Noiseに投稿したり、写真を撮ることだった。つまり、今まで何年にもわたって続けてきた自分の性に合ったライフスタイルそのものだった。

どちらかと言えば、私は今までより一層熱心に認めるようになってきた。最初からずっとフロー静けさこそが幸せの真の源だったということを。億万長者の夢へのカーテンを開いてみると、驚いたことにそこに見つけたのは私がすでに持っていたものだったということだ。いずれも驚きと畏敬に満ちた発見だが、結局はその事実にとても元気づけられた。

主として今まで築いてきたものを失いたくないという思いが働いたのだろうか。金持ちになったことで生じる大災害を避け、私はふわふわしたピンクのマネーの雲から飛び降り、自分の始まりとなった地点に降り立った。450スクエアフィートの小さなコペンハーゲンのアパートメントに戻ってきたのだ。私の興味や好奇心は損なわれず、情熱も今まで通り。世界でも指折りの富の世界を体験したが、以前の自分も今の自分もどちらも共存可能で、今を楽しめる。これは自分にとって驚くべき事実だった。

これは笑える話だ。だって、リッチな人々は私が彼らの仲間入りをする前にそれを伝えようとしてくれていたのだから。直接言われたわけではないが、これらの賢明で慎しみ深く含蓄のあるアドバイスは引用やインタビューで知っていた。そして、私はそういう時いつも「ああ、そう言うのは簡単だろうよ。だって、あんたはもう勝ち組なんだから」と思っていた。これを読んでくれているあなただってそう感じると思う。極めて自然な反応なんだ。

おそらく私のなかで億万長者になるのはこんな感じだと思ってしまうのが怖かったのかもしれない。これが手に入れた全てだと分かってしまうのが。銀行口座の残高が膨れ上がること、テレビのサイズが大きくなること、ガレージの車が変わること、豪奢な家に引っ越して郵便番号が変わること、そういったことで私という人間がコンプリートするわけではない。自分の力で金持ちになるというこのクソみたいな体験が意味するものが何なのか見つけ出さなければ。

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繰り返すが、金持ちになることの幻滅をあれこれ深く考えて述べてみても、この世の多く人々の共感が得られないのは分かっている。私は腹を空かせたまま寝たくはない。撃たれるんじゃないかと不安になりたくもない。最低賃金で働く店員として人生が終わるのではないかと不安になりたくもない。デンマークでの経験がこういった基本的な安全や快適さに関するあらゆる不安から私を解き放ってくれた。だから、苦労を知ったようなふりはできない。

私にできるのは自分の経験について話すことだ。その経験を、とりあえず不自由ない生活を送ってはいるが、カーテンの後ろに宝物があるのではないかと目を輝かせて楽しみにしているような人たちとシェアしたい。誠意や尊厳、果ては人間性までも金持ちになるためなら捨て去ってもいいと平気で思っているような人たちと。

私たち人間は信じられないほど素早く周囲の環境に慣れてしまう。だから金持ちになれても高揚は一過性で幸福感は長くは続かない。はしごを一段登ったところでそこに救いはないとあなたが気づくまで、セイレーンの誘惑の歌は聞こえ続ける。

人生で最良のものは「自由」。

次に良いものは、とてもとても高価なものよ。

– ココ・シャネル

この引用が真実なら、最良とその次の間にはずっと大きな隔たりがあるのだと私は付け加えたい。2番目と20番目の間よりもずっと大きな隔たりが。

日常に不自由ない生活を送れるようになったなら、人生で後回しにする価値のあるようなものはこの世にほとんどない。あなたは既に最良のものを見つけているか、少なくとも目にしているはずだ(気づいていないかもしれないが)。それを大切にしてください。

Translated from original by Ray Yamazaki, with thanks to Medium Japan.

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